〜 銀糸伝説 〜 其の五
叶わぬ夢など見たくない
届かぬ想いなら瞳を閉じ、ただ君を想うだけでいい
それが自分の恋なのだと
はじめから全てをあきらめていたオレ…
遥か昔……まだ天界に闘神が不在だった頃の話……
一人の少年が天界のある城内に住み込んでいた。
彼の一族は、決して裕福とは言えなかった。
父は真面目で学識もあったが、他人に媚をうる術を知らない。
出世欲とは無縁で、毎日同じ時間に仕事に出かけては同じ時間に帰ってくる。
かといって息子と遊ぶ事もしない、彼にとっては何の面白味もない人物だった。
自分も大きくなったら父と同じ道を歩み、無表情で無関心な毎日を送るのだと、
幼くして彼は全てを諦めかけていた。
そう……彼女の歌を聴くまでは……
天上界でもひとしきり寂しいその場所には、
代々、人間の生死とその善悪を司るという神の城があった。
俗に言う『閻魔大王』の城……
重厚な鋼の扉に閉ざされ、重々しい茎に包まれた大きな城は
悪人を地獄に送る神の棲家としてふさわしい。
閻魔家はその神力の強さと采配にかけては、
神々の中でもひときわ異彩を放つ一族だった。
それ故か、一族に安易に近寄ろうとするものは少なく、
その城も一族ゆかりの者のみが集う場所となり、
周囲からは自然に敬遠されていた。
閻魔家に伝わる重要な書物や経典を管理する書庫長として、
彼の家族は代々この城に仕えていた。
学術的に才があり、一族の秘密をも知りえる職は貴重な地位とされ、
少年もいずれはその職に就くことを約束されていた。
無論、幼い頃より書物を読む事を余儀なくされ、
遊ぶ事もままならなかったが、幸い同じ年頃の友達もいなかったため、
彼にとっては古ぼけた本だけが唯一心の慰めだった。
ある日、いつものように薄暗い書庫で本を読んでいると、
窓の外から聞きなれないメロディーが聞こえてくる。
よく聞くと、それはなにやら少女の歌声らしきものだった。
「え…? この城に歌をうたうようなヤツ…いたっけ…?」
聞きなれない声にそう思った彼は、ふと窓の外に目を向けた。
そこには庭園が広がっているだけで、人影らしきものはない。
主の見えない歌声は、穏やかな風に乗って響き渡る。
哀しく、そして優しく、少年の心を包み込むように…
目を閉じ、声のする方向を耳で探す。
すると、その声は庭園を隔てたある部屋から聞こえてきていた。
「あの部屋…確か、あかずの間じゃねぇか…?」
そこは城の中でも開かずの間として知られた部屋で、
部外者は中に立ち入る事を禁じられた場所だった。
もちろん、彼もその部屋に入った事などない。
その部屋の中に何があり、どんな者がいるかなど、
彼には想像もつかなかった。
「別に誰がいたって、所詮俺には関係ないけどサ……」
冷めた口調で呟くと、また本に視線を落とす。
城の中で何が起こっていようと、そんなことはどうでもよかった。
自分はただ淡々と本を読み、学を積む。そうすれば父と同じ職に就けるのだ。
それ以外の職に就くことなど出来はしないし、望んでもいけない。
普通の子供らしく自由奔放に遊んだり笑ったり、恋をしたり……
そんなことは自分とは無縁だと思えた。
しかしそれからも、歌声は毎日同じ時間になるとその部屋から聞こえてきた。
意識はしていなくとも、歌声は自然に耳に入り少年の心に響いてくる。
いつしか、その誰のものとも知れない歌声を聴きながら
本を読むことが彼の日常となっていた。
庭から入り込む甘い金木犀の香りと透き通った歌声。
なんともいえない穏やかな一時……
心地よい歌声を聴きながら、現実離れした本の世界で翼を休める。
その一時だけが、惨めで面白味のない現実から逃避できる時間だった。
ある日、いつものように本を読んでいると、
時間になっても例の歌声が聞こえてこない。
声の主に何かあったのではないか。
心配になった彼は、今まで出たことのない、庭へとこっそり抜け出した。
そこは城の中でも数少ない沢山の華や樹木が茂った場所だった。
「へぇ、ここってこんなだったんだな……」
いつも声がする部屋は、彼が外を眺めている窓からはそう遠くはない。
少年は開かずの間の閉ざされた窓までくると、恐る恐る中をのぞいた。
するとそこには、今まで見たこともないほど可憐な少女がいた。
淡い日の光を受け、髪はキラキラと輝いている。
まるで銀糸の絹を纏ったような小さな身体は、寝床に臥したまま
嗚咽を必死で堪えるように小刻みに震えていた。
「なんで……泣いてんだ……?」
彼は思わず窓の外から少女に向かって声をかけた。
驚いた少女は瞳に涙を沢山溜めたまま、少年のほうを見上げた。
その紫水晶の瞳は微かに光を受けてうっすらと輝く。
少年は一瞬にして心臓を射抜かれてしまったのだった。
「……あなた……だれ……?」
「あ……オレ……塔天っていうんだ……
お前は? なんでこんなトコで、泣いてんだ?」
紫色の瞳いっぱいに涙を浮かべ、少女は彼を見つめた。
「ねぇ……私……外にでたい……
お花を摘んだり、いろんなもの、見てみたい……」
「なんで、お前こんなとこに閉じ込められてんの?
ひょっとして、ずっと前から……ここにいる?」
「……うん……
わたしは鏡の守り人なの……だから、外に出ちゃいけないんだって……」
「ふぅん……なんかよくわかんねぇけど、ここから出たいなら、
俺が連れ出してやるよ。
皆が寝静まった後でよけりゃあな……」
「……ほんと……?」
「ああ、ほんとさ!」
大地を飲み込んでしまいそうなほど、大きな月が輝く夜に、
少年は密かに少女を外に連れ出した。
眩しい月の光に照らされた宵の花々は、日の光の下で見るそれとは違って
華やかな妖艶さを奏で出す。
だがそれらの花の艶やかさにも負けないほど、
目の前の少女も美しく輝いていた。
この世にこんなに綺麗なものがあるのだと、彼は心の中で感嘆の声をあげていた。
少女は初めて見る全てのものに感動し、鮮やかな笑みを浮かべた。
はじめはわずかな会話から……
そして徐々に自分たちことを話すまでになっていた。
少女は閻魔家に代々伝わる家法の鏡の守り人。
つまり、閻魔家の姫君だった。
「うっそ……お前……姫様なのか?」
「皆は私のこと殷姫って呼んでるけど……」
「殷姫……そっか、お前があの殷姫だったのか……」
塔天も閻魔城に住んでいるはずの姫君の噂は耳にしていた。
この世で一番清らかで、麗しい姫君……
鏡の守り人は、あくまでも清らかな心の持ち主でなければならない。
全ての汚れや悪を知らず、鏡を清められる存在である事が求められる。
殷姫は鏡の守人として、天界の中でも美しい姫君としてその名を知られていた。
閻魔家の掟で、守人は一定の年齢になるまで一切俗世との交わりを禁じられていた。
そのために彼女は、城の中のあかずの間で、監禁同様の日々を強いられていたのだ。
「うわっ、じゃあ俺、もしかしてかなりヤバイことしちゃってる?
城の掟に背いて、大事な殷姫を外に連れ出してたってことだろ…?
まじぃ、親父に知れたら勘当だ!……っていうより、俺の命すらまずいかも……」
「後悔してる……?私なんかに関わって、外に連れ出したこと……」
一瞬背筋に、冷やりとしたものが走った塔天ではあったが、
目の前で心配そうに自分を見上げる殷姫の顔を見ると、
もう、そんなことはどうでも良くなっていた。
というより、以前城内で人目に触れずに生活している殷姫の噂を耳にしたとき、
心から気の毒に思ったことを、ふと思い出した。
「いや、むしろいいことしたってカンジかな?
オレさ、お前に会う前はあの薄暗い書庫で本ばっか読んでた。
それでも毎日がつまんなくってどうしようもなかったのに、
お前はもっと窮屈な思いをしてたんだもんな……
あの薄暗い部屋から、窓の外を眺めるしか出来なかったんだろ?
それに俺は少なくてもお前に会えて……良かったと思ってるし、
お前が外に出て笑ってくれると、それだけで嬉しいっていうか……」
「……塔天……ありがとう……
私も塔天に会えてから、毎日がとても幸せ……
今までの哀しいばかりの日々がまるで嘘みたいに、
塔天と一緒にいるととても楽しい……」
「そっか、ならまたこっそり一緒に抜け出そっか?」
「……うん……!」
彼は少女の望むまま、彼女を連れ出し望む場所へと連れ歩いた。
身分の違う相手だとは重々承知していた。
だが、外に出て、幸せそうに微笑む彼女の姿を見たかった。
そのためだけに危険を冒して、彼女を部屋から連れ出した。
殷姫のほうも、塔天に会えることをとても楽しみにしていた。
彼だけが、自分と普通に会話をし、薄暗い部屋から開放してくれる人だった。
はにかみ屋で、ぶっきらぼうなところもあるが、
その優しさは、仕草のひとつひとつから伝わってくる。
時折見せる笑顔や触れた手の温もりが、彼女の心の中の氷を溶かしてくれた。
幼い時から本を読んでいたせいか、塔天はもの知りで色んなことを話してくれる。
毎日会話をするのがとても楽しくて、彼のことを考えるだけで何故かワクワクした。
お互いに、それが叶わぬ恋だとわかっていても、
相手を思いやる気持ちだけは、日々募っていった。
「なぁ、今度は城の外に出てみねぇ?
実は俺もあまり出た事ないんだけどサ、綺麗な湖とか、
名前も知らないような珍しい花とかが咲いてる場所があるらしいぜ?」
「ホント?! 行きたい! 絶対よ? 約束だからね?」
小さな小指と小指を絡ませあい、また会う日の約束を交わす。
その指から伝わりあう僅かな温もりだけが、
殷姫の壊れかけた心を繋ぎ止めていた。
いつしか二人は身分の違いを超え、愛し合うようになっていた。